こんにちは!
神奈川県横浜市を拠点に交通誘導警備・イベント警備を行っております、株式会社イージス代表の吉岡忠です。
日本人の大半は特定の宗教を信仰しておりません。
ですからお正月の初詣は神社でもお寺でもどちらにも行きます。
『信仰心』というものは人間の心の拠り所としてとても大切なものです。
しかし日本では学校でも家庭でも教育でそれを教えません。
むしろ宗教に繋がるものとして、あるいは憲法にある”信教の自由”に触れるとして教育の中に盛り込むことを恐れているフシすらあります。
家庭でも学校でも信仰心について大人から教わらないのならば、子ども達は信仰心を持たないまま大人になってゆきます。
つまり心の拠り所を持たない大人になるということです。
心の拠り所が無いと人は
安心を得られない=不安
になります。
これは現代の日本社会そのものの様相ではないでしょうか。
かといって昔から日本人が信仰心を持たずに来たかというと、そうではありません。
日本は2600年以上も続いてきた世界最古の国家です。
信仰心を持たない=安心を得られないままに国家が継続できる筈はありません。
日本人は信仰心を『持っていた』のです。
『持っていた』ものをなぜ手放してしまったのでしょうか?
それは西洋文明を輸入したことが大きいでしょう。
明治維新により急速な近代化=物質文明化が進行し、それまで日本人が持っていた信仰心、たとえば『お天道様が見ている』みたいな信仰心が『非合理的なもの』として徐々に排斥されていってしまったのです。
ただ、明治時代は辛うじて『天』に代わる心の拠り所として皇室の存在がありました。
…だったのですが、大東亜戦争の敗戦により一夜にして『七生報国』から『ギブ・ミー・チョコレート』になり、占領軍のマッカーサー元帥を神のごとく崇める事になったのです。
この素早い変わり身は日本人特有のものですが、信仰心の無さからくるというものとわけでは無く、『お天道様が見ている』という言葉に表れているように日本人の信仰の対象は『特定の神』ではなく山川草木など万物に宿る『自然』なのです。
信仰の対象が『自然』ですから、その対象は四季が巡るのと同じように変化します。
ですから日本人の信仰心は一神教の宗教を信じる国民性とは一線を画し、変化に柔軟なのです。
そのように日本人は自然の中に超越的・普遍的なものを見出し、崇拝していたのです。
現代を生きる日本人はどうでしょうか?
自然よりもテクノロジーを崇拝し、神社に行けはすれども仏壇や神棚に向かって手を合わせる、というような風習はもうほぼ残っていないのではないでしょうか?
いまの日本人は明治維新、そして敗戦を経て心の故郷を無くしてしまっているような気がしてなりません。