こんにちは!
神奈川県横浜市を拠点に交通誘導警備・イベント警備を行っております、株式会社イージス代表の吉岡忠です。
死というものは人を感傷的にさせます。
何故かと言えば、別れが寂しいからですよね。
近しい人があの世へ旅立ち、もう声を聴くことも肌の温もりも感じる事が出来なくなる寂しさ。
そのうえ、亡くなった人がまだ若かったりすれば、遺族は胸が張り裂けそうな悲しみや苦しみを抱え続けなければなりません。
心は身体を支配するので、場合によっては遺された側も病気になってしまい、後を追うように亡くなってしまうケースすらあります。
お釈迦様も『死』は人生における苦しみの四大要素(四苦)の一つである、とおっしゃっていました。
お釈迦様は悟りを開き、人々を苦しみから解放する事を使命にインド中を旅していた人。
「釈迦という人は人々の苦しみを取り去ってくれる凄い人だ!」
そんな噂がインド中に広まっていました。
ある日、若い女性が半狂乱の状態で、お釈迦様の元に飛び込むようにやってきました。
腕の中には赤子を抱いています。しかし赤子はピクリとも動いておりません。
母親「お釈迦様!この子が死んでしまったんです!!何とか生き返らせて頂けませんか!!貴方はどんな苦しみからも救い出してくれる方だと聞いて来ました!」
釈迦「わかった。お前の願いを叶えてあげよう。ただし、その子を生き返らせるにはケシの実が必要なのだ。村の家々をまわってケシの実をもらってきなさい」
聞き終わりもしないうちに動かなくなった赤子を抱え、急いで村へ駆け出そうとする母親。
その母親の背中に向けて釈迦がもう一言付け加えます。
釈迦「ただし、死人を一人も出した事がない家のケシの実でなければその子は生き返らぬ」
母親「わかりました!!」
数時間後、母親が疲れ果てた顔でお釈迦様の元に戻ってきました。
聞けば村中、すべての家を訪ねたということですが、死人を出したことが無い家などなかったそうなのです。
母親「お釈迦様。私は自分の子だけが亡くなってしまったと思っていました。しかし、今日訪ねた家では幼子を亡くした家庭、幼子を遺して両親を亡くした家庭・・・死人を出したことのない家などありませんでした。」
釈迦「お前の悲しみはよく解かる。しかし、誰にとっても死は必然なのだ。悲しみを経験しているのはお前だけではない」
この母親は苦しみから解放され、その後お釈迦様の弟子になりました。
『死』というものは誰にでもやってきます。
しかし、実は『死』で悲しく、苦しいのは死んだ張本人ではなく、周りなのです。
『死』を経験出来るのは死んだ人だけです。そしてそれがどんな経験なのか聞くことは不可能です。あの世に行かない限り。
死んだ本人はもうこの世に居ないわけですから"悲しい""苦しい"という感情を抱く事もできないのです。
『死』で悲しみ、苦しむのは生きている側。そしていつか誰にでもやって来るもの。
それは遺された者へのメッセージです。
悲しむことが悪い事ではない。
生きている者は愛しい人の死によって悲しみを味わい、逆に命の有難さ、生きている事の有難さを教わっているのです。
と、考えたら我々生きている側は、死ぬそのときまで精いっぱい、生きることを味わい尽くすことが使命なのではないでしょうか?
お釈迦様は我が子を失った若き母親にそれを実感させることで、彼女の心から『苦』を抜き取ったのでしょう。